第21回
明治の代表的出版社・春陽堂の創業者
和田 篤太郎
(わだ とくたろう)
1857-1899(安政4年−明治32年)
和田篤太郎は、1857(安政4)年、不破郡荒川村(現大垣市)に生まれました。
16歳で上京し巡査となりましたが、やがて巡査をやめ書籍の行商を始め、2年ほど後東京の芝に書店を開き、明治15年には出版業に進出しました。
明治21年夏、親交のあった作家須藤南翠に文芸雑誌の創刊をもちかけます。同年10月、ライバル金港堂の文芸誌「都の花」が先に創刊されることになり、数か月遅れて明治22年1月、春陽堂から「新小説」が刊行されましたが、後塵を拝する形となった「新小説」は振るわず、翌23年には自然消滅してしまいます。
しかし日清戦争の戦況報告や画集の出版に人気が集まったことや文壇の新鋭、尾崎紅葉との関係を深めたことで、春陽堂は出版界での基礎を固めていき、やがて飛躍的な発展を遂げました。
そして明治29年7月、第2期「新小説」の創刊に踏み切ります。幸田露伴を編集主任に迎え、新人の発掘を積極的に行いました。以後「新小説」は新人作家の登龍門となっていきます。
篤太郎は創業者らしい一徹さと、義侠心をあわせもった人柄で、当時の文壇から『春陽堂の「髯」』と一目も二目もおかれる存在でした。
締め切り前の作家を執筆に専念させるため、ホテルなどに「缶詰」にしたのも、篤太郎が最初と言われています。
第2期「新小説」の創刊から2年半後の明治32年2月、篤太郎は42歳の若さで病没しました。春陽堂は妻うめに受け継がれ、その後も文芸出版の大手として多数の全集・叢書を刊行していきました。明治・大正文学を語る上でなくてはならない出版社と言える春陽堂は現在も、時代小説や種田山頭火の俳句関係書などを出版しています。
----------------------------------------------------------------
<参考文献>
山崎安雄『春陽堂物語』(春陽堂,1969)
日本放送出版協会編『日本の「創造力」 近代・現代を開花させた四七〇人 第6巻』(日本放送出版協会,1992)
山田賢二「春陽堂と和田篤太郎」(『郷土研究岐阜』第44号)
後藤宙外「明治文壇回顧録」(『現代日本文学全集97 文学的回想集』(筑摩書房,1968))
内田魯庵『文学者となる法』(図書新聞,1995)
岐阜県図書館 渡辺記
目次へ戻る